2009年3月某日 渋谷DUO
僕はこのライブハウスの控え室で、極度の緊張の中にいた。
「マジ緊張しますね・・・」
「大丈夫やって!いつも通りにやれば絶対大丈夫やから」
バンドのリーダーだった僕は、他のメンバーが緊張しているのをなだめていた。
でも実は、僕の膝は震え、手には汗がにじんでいた。胃がぎゅっと締め付けられるような気分だった。
メンバーには隠し、平静を装っていたつもりだったが、もしかしたらバレていたかもしれない。
せまい控え室と通路の辺りをギターを抱えたまま行ったり来たりして、気を紛らせていた。
「それでは!●●レコードのプレゼンテーションライブを始めたいと思います!」
ステージで司会者の声が聞こえた。
(いよいよやな、、これが人生で最後のチャンスかもしれん、、)
司会者に紹介され、僕らのバンドは100人以上の業界関係者が見守る、静まり返ったステージへ上がった。
この日の出来事は、これまでの人生の中で、
最も「最悪」な結果と「最高」の結果を同時にもたらすこととなった。
僕の人生を大きく変える出来事となったんだ。
目次
音楽とアイデンティティ
ここで少し自己紹介させて欲しい。
Tac 1980年生まれ。
14歳の時にギターを始め、作曲、作詞に没頭。
17歳で初めてのバンドを結成し、ヤマハ主催のティーンズミュージックフェスティバルで地区優勝、地元のコンテストでも準優勝、その他のコンテストでも高い評価をもらう。
それによって自分の才能に自信が生まれ、音楽がアイデンティティとなる。
人を感動される仕事がしたいという気持ちが昔からあり、それを叶えることの出来る自分にとっての一番の手段は音楽だと考えるようになる。バンドでデビューし、音楽だけで生活していくことを目指し、本格的に活動を開始。
「誰もやっていない音楽」をコンセプトに掲げ、精力的に活動するも中々芽が出ず、苦しい時期が続く。
後輩バンドがメジャーデビューしたり、県外の仲の良いバンドが億単位のプロモーションを受けデビューしたりしている中、自分の才能と信念だけを信じ、メンバーの脱退などにもめげず活動を続けていた。
夢に見た大手レーベルとの契約
そんな時、お世話になっていたライブハウスのブッキングマネージャーが、大手のインディーレーベルを紹介してくれたことをキッカケに突如契約にいたる。
インディーとは言え、かなり有名なバンドを抱えていて力のあるレーベル。
おそらくこれを見てくれている人全員が知っていると言える程有名なバンド●●が所属するレーベルのインディ部門だった。
「〇〇と契約出来たんなら売れるだろう」と色んな業界関係者から言われた。
メジャー部門だけでなく、そのインディ部門も割と有名で、Mステに何度も出演していたバンドもいたし、アンダーグラウンドな世界で一大ブームを巻き起こしたバンドもいた。
しかも、僕たちを気に入ってくれたのが、上記の●●を発掘したことで業界では有名なT氏だった。だからこそ、「見る目のある業界人にやっと才能を認められた」と心から思えた。
「これでようやく、夢にまで見た音楽だけの生活が手に入るかもしれない」と思った。
だが、想像とは全く違う現実が待っていたんだ。
CDリリースの信じられない結果
じっくりと時間をかけて楽曲制作し、満を辞して発売したCDはほとんど売れず。
全国の主要なCDショップに展開し、タワーレコードにおいては試聴ブースを設けてかなりプッシュしてもらったにも関わらず、想定していたよりはるかに少ない枚数しか売れなかった。
リリースによる影響は少なく、ファンも大して増えず、所属する前と比べても大きく状況は変わらなかった。
それまでと比べて変わったことと言えば、サポートしてくれる人達がついたことと、レコーディング環境が良くなったこと、ライブのブッキングが良くなったことくらい。
期待していた夢の音楽生活とは、全くかけ離れた現実に失望した。
さらに最悪なことに、僕らが失敗を挽回するために2枚目のアルバムを制作している中、稼ぎ頭の●●がレーベルともめたことによって抜けてしまい、その影響もあって会社の業績がいちじるしく悪化。
あっという間に経営が悪化していき、僕らにとって頼みの綱であったレーベルがまさかの倒産。
それにより契約は解消となり、振り出しに戻ってしまう。
音源が売れなかったのは「売り出し方が悪かったのか」、それとも「音楽がダメだったのか」いまいち納得できないまま、行き先を失ったバンドは解散することになった。
メンバーのうちの何人かは、これを最後に音楽を辞め就職した。でも僕は、自分の信念が間違っていたとはどうしても思えず、そのまま音楽を辞める気にはならなかった。
当時すでに28歳。
元々知り合いだったメンバーを誘って新しいバンドを組み直した。
死に物狂いで楽曲制作し、音源を作った。
その結果、、それまでに作った音源の中で、過去最高と思えるものが完成した。
そして、レーベルの元担当者にその音源を聴いてもらったことがキッカケで、運よく大手レコード会社のプレゼンライブに出演する機会をもらったんだ。
人生をかけた最後のチャンス
冒頭に書いたのはこの日の話だ。
忘れもしない、29歳の誕生日を目前に控えた3月某日。
レコード会社の社運をかけたプレゼンライブということで、会長や社長も含め総勢100人以上の音楽業界関係者がそろい、渋谷にあるDUOというハコで、ピリピリした空気の中ライブが行われた。
もうすぐ30という年齢だったし、もうこれが最後のチャンスだと思った。
そう思えば思う程、膝は震え、胃がおかしくなりそうだった。
「それでは!今回出演していただくアーティストの中で唯一のバンドである●●です!ステージへどうぞ!」
司会者のアナウンスで、僕らは静まり返ったステージに上がった。
これまでの人生で1番緊張したと言えるかもしれない。
幸いなことに、ステージから見る客席は暗く、業界人たちの姿はハッキリ見えなかった。
ステージで楽器のセッティングをしている中、少しホッとしたのを覚えている。
そして、何百回も練習してきた僕のギターリフからライブが始まった。
10分程の時間だったと思う。バンドの希望を乗せたライブステージが終わった。
あまりの緊張にどうなることかと思ったが、ライブは無事成功した。
演奏のミスもなく、パフォーマンスもちゃんと出来、途中からは曲に入り込んで演奏することも出来たくらいだった。
ステージを終えたあと、駆け寄ってきた僕らの担当者にも「バッチリだった」と褒めてもらえた。
他の出演者は大したことないように見えたし、これはもしかするともしかするかもしれない。。そんな期待が膨らんできた。
今度こそ、夢にまで見た「音楽だけの生活」が手に入るんじゃないかと思った。
・・・だけど、予想と正反対のとんでもない結果が待っていたんだ。
すべてをぶち壊す程、最悪な評価をもらう
担当者には、「すぐに結果は出るみたいだから、分かり次第連絡する」と言われていた。
にも関わらず、2週間程経っても一向に連絡がない。
たまりかねて担当者に連絡したところ、気まずそうに 「実はもう結果は出てる」と言われ、アンケートが郵送されてきた。
そこには目を疑うようなことが書いてあった…
100名近くいたほとんどの業界関係者が、「同じ理由」で9組中「最低の評価」をつけていたんだ。
かなり酷評と言える内容。あまりのショックで、途中で読むのが怖くなったほどだ。
誰か1人くらいは良い評価をつけてくれてるんじゃないかと期待し、最後まで読んだが、誰一人として僕のバンドに高い評価をつける人はいなかった。
メンバー全員揃っている中で、全員でそのアンケートを読んだ。皆が言葉を失った。全く予想していない結果に、途方に暮れてしまった。
自分が10年以上も信じてきたものが、完全に間違っていたことを認めざるを得ない辛辣な出来事だった。僕のずっと大切にしてきた信念は粉々に打ち砕かれ、自分の才能を信じる気持ちも完全に折れた。
でも、ここまで酷評されたからこそ、一つの光が見えてきたんだ。
すべてを失ったからこそ見えてきた希望
社運をかけたプレゼンライブで、業界関係者が僕らを振るいにかける際の基準は、やはり「売れるかどうか」だ。
つまり僕らのバンドは「売れないバンド」だと評価された訳だ。
でもそれを受け入れた時、1つの疑問が生まれてきた。
「売れるバンドと売れないバンドの違いは何なのか?」
さらには「業界人は売れるか売れないかを、何を基準に判断しているのか?」ということだ。
音楽というのは、感性がものを言う世界だ。
業界関係者とはいえ、人によって好みや考えもバラバラなはずなのに、全員の評価が低かったということは、何か一定の基準があるということなんじゃないか?
実際、アンケートの中には、楽曲や演奏技術について褒めてくれる言葉は沢山あった。
「曲も良かったし、バンド自体の演奏も良かった。メンバーのルックス的にも申し分はない。でも、、、」
このようなアンケートばかりだったんだ。
だから、音楽自体のクオリティには問題がないことは明白だった。
ただ、「ある大切なものが欠けている」という理由で全員が酷評をつけていたんだ。
「売れているバンド」だけが持っている共通点
これまで通りの活動をする意味を完全に失った僕は、バンド活動を一旦ストップすることにした。
そして取り憑かれたように、「売れているバンド」と「売れていないバンド」の違いについて研究し始めた。
武道館ライブやアリーナライブなどの数千人~数万人規模のライブがコンスタントに出来るような「売れているバンド」と、いくらプロモーションされても「売れないバンド」の違いは何なのか?
この問いの答えに、最後の希望の光が残ってるんじゃないかというわずかな可能性にかけて、全てを費やした。
考えうる限りの方法を使って、「売れているバンド」と「売れていないバンド」を比較し、その違いについて調べ続けた。
すると次第に、「売れているバンド」には、ある共通点があることが見えてきた。
さらには、
- 売れるか売れないかは才能だけの問題でないこと
- 売れているバンドは運が良かったとかそんなのではなく、売れるべくして売れていること
こうしたことも見えるようになってきた。
かつての僕のバンドがプロモーションしてもらったにも関わらず売れなかった理由や、プレゼンライブで酷評をもらった理由、そして多くの売れていないバンドが売れていない理由さえも分かるようになってきたんだ。
「売れるバンド」になるためには何が必要なのか、自分の中で確信めいた考えが生まれた。
バンドの改革と目指すべき目標
そのうち、もっと沢山のことを学びたいと思うようになった。
というよりむしろ、そうしなければいけないと思ったし、地元で音楽をやっている場合じゃないと感じた。
最前線で活躍しているバンド、話題になりつつあるバンドなど、参考になるライブがすぐに見に行けること。ボーカルの歌い方を変えるための理想的なボイストレーナーがいたこと。
それらの理由から、思い切って上京することに決めた。
上京することに反対だったメンバーは地元に残ることとなり、考えに賛同してくれたメンバーだけで、震災のあった2011年の5月に上京した。
そして、東京での生活が始まり、さらに沢山のバンドを研究していく中で、あるプロデューサーを知ることとなる。
自分が敬愛するバンドを2つもプロデュースし、日本のアンダーグラウンドなバンド業界ではかなり有名な人物。
- その人のインタビューを読んだとき、その思想にすごく感銘を受けたこと
- 話すことすべてがしっくりきたこと
- 自分の「売れるバンドになるための考え」と合致していたこと
- 実際にバンドのマネジメントプロデューサーとして圧倒的な実績をあげていたこと
これらのことが重なり、いつしかその人と一緒にやりたいと思うようになった。
そして、その人の運営するレーベルへ所属することが一つの目標となった。
音楽人生にとっての最後の挑戦
- 沢山の人達の心をつかむ魅力を持つために必要なもの。
- 才能や努力だけではなく、もう1つ大切なことがあるということ。
- その大切な1つのカギとなるものが、成功しているバンドとその他を分けるものであったこと。
自分の中では、それらの問いに対して確信的な答えが見えていた。
それを元に楽曲制作、音源のレコーディング、MV撮影を行った。
あのプレゼンライブから約2年近くの近くの年月をかけて、やっと納得いく音源やMVが出来上がった。
出来上がった音源を、尊敬するプロデューサーに送ることにした。
「自分達の考えが間違ってなければ、恐らくプロデューサーの心には響くはず・・・」
そう思えるだけのことはしてきたし、沢山の人達の心をつかむ魅力を持つために必要なものが分かっている上で、それを満たす音源を納得いく形で作ったからこそ、そう思えた。
どのように音源を送ればいいのかも心得ていた。
可能な限り最高の状態にし、思いのたけを込め、尊敬するプロデューサーへ送った。
これで反応が無ければバンドをやめようと思っていた。
他のレーベルと妥協で契約するつもりもなかったし、本当にやれるだけのことをすべてやったという気持ちだった。
「僕の音楽人生にとって最後の挑戦。どうか届いてください…!!」
祈るような想いを込めて、連絡を待った。
送ってから3、4日経った頃だったと思う。予想よりも早く連絡があった。
担当者からのメール。
「是非ライブを見て見たい」という返事だった。
これが最後だと思って挑戦したことが1つ報われたこと。
自分達の考えが間違ってなかったことが1つ証明されたこと。
業界関係者100人以上に最低の評価をもらったどん底から、すべてをかけてバンドを作り直し、業界最高のプロデューサーに認めてもらるまでに大きく成長出来たこと。
いろんな感情が溢れ、メンバー全員で号泣し喜んだ。
これまでの人生で、初めてじゃないかと思えるほど嬉しかった。
これまでと全く違う手ごたえ、圧倒的な変化
「今成功しているバンドだけが持っている共通点」から得たヒントを元に、バンド活動においての自分なりの「正しい考え方」を構築した。
それを元に音源を作ったことにより、尊敬するプロデューサーから良い反応をもらえたが、その後の活動においても、これまでに無かった程環境が変わった。
ライブの予定をもらいにライブハウスに行くと、ブッキングマネージャーに音源を絶賛され、始めてのハコで、現メンバーで初めてのライブだったにも関わらず、ハコで一押しのバンドの企画イベントにねじ込んでもらえた。
バンドの改革と共に、バンド名も変え、曲もすべて代わり、上京してから新たなメンバーを見つけた。文字通り初めてのライブだった。
にも関わらず、そのハコで一押しのイベントにいきなり出演させてもらえた。
ライブ後打ち上げの席で、イベントを企画したバンドから聞いた話だと、ブッキングマネージャーが、「このバンドはヤバいから絶対にちゃんと見といた方がいい」と絶賛していたということだった。
また、Youtubeにアップしていた動画の再生回数が伸び、そこにリンクしていた販売サイトからCDが沢山売れた。
僕がかつてレーベルに所属し、全国展開で販売していた時よりも売れたと思う。
自分達で封筒や歌詞カードなどを揃え、手作業で発送していたから、注文をさばくのが結構大変だったくらいだ。
ライブ活動を何度かやっている中で、ZEPPワンマンが出来るくらい割と有名なギターロックバンドを抱える、あるインディレーベルの社長から声がかかり、すぐさま契約の話をもらった。
意中のプロデューサーがいる話をし、丁重に断ったが、すごく嬉しい話だった。
そして何より、これまでバンドをやってきて初めてだと思えるほど「熱狂的な」ファンがつき始めた。
これまでのバンドでもワンマンライブや企画イベントも沢山やってきたし、集客もそれなりにやってきたけど、熱狂的なファンというより、どこか友達のように距離が近く、音楽に強烈に惹かれたというよりも、仲良くなったことでライブに来てくれるようになった仲間という感じだった。
そうではなくて、ボーカルのことを完全に憧れのまなざしで見ていて、本気でバンドの音楽にのめり込んでくれているファンだ。
Twitterでも周りの人に勝手に広めてくれたし、友達を誘って毎回ライブに来てくれる子達もいた。
これらのことは、プロデューサーに音源を送ってから、月に1回のペースでライブを始め、わずか5回程のライブで実現したことだ。
営業活動など何もしていないのに、勝手に向こうからやってきたんだ。
これまでと違う圧倒的な変化に、大きな手ごたえを感じていた。
突然訪れたバンドの終焉
活動は軌道に乗り始めたが、残念なことにプロデューサーとの話は、契約には結びつかなかった。
その原因としてプロデューサーが僕らに伝えてくれたのは、「バンドは総合力での勝負」だということだった。
それが何を意味していたかを考えた。
そこから導き出した結論は、「年齢」と「現メンバーでの活動歴の浅さ」が原因だということだった。
プロデューサーは、「これからも活動は見守っているし、ここからは君たち次第だ」と言ってくれたし、苦労して作り上げたバンドをもっと成長させていこうと思った。
でもその矢先、、、突然ボーカルが生死を彷徨うような大病を患い、まさかの入院。
数か月の入院生活の末、退院することは出来たが、これまでのようなすべてをかけたバンド活動を継続していくだけの余力は残っていなかった。
こうして、バンドは解散することとなり、僕の音楽人生は幕を閉じることとなった。
心境の変化とこのサイトの意味
「音楽が無ければ死んでしまうかもしれない」
14歳でギターを始め、17歳でバンドを組み、そこから音楽を辞める33歳までの間、ずっと音楽だけをアイデンティティとして生きてきた。
でも、意外なほどあっさりと音楽を辞めることが出来たのは、本当に「やり切った!」と心から思えるほどチャレンジ出来たことと、それによって少しの結果が得られたことが影響していると思う。
自分の音楽人生において、悔いは残っていない。
でも、音楽を辞めてからずっと心に残っていたのは、最後に見つけた「大切な考え」を、誰かに伝えるべきじゃないかということ。
「もし、この考えを20代の早いうちに知ることが出来たとしたら一体どうなるだろう」
それがこのサイトを立ち上げた理由だ。
一時は完全に音楽から離れた生活をしていたが、どうしてもそれだけはやりたいと思い、時間を作ってコツコツと書いている。
こんな長いプロフィールを最後まで読んでくれて本当にありがとう。
このサイトで僕が伝えることが、多くのバンドマンの役に立つことを心から願っている。
Tac
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